性愛の本質の根っこにあるもの

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◊♦間近の講座♦◊

 

森林原人さんが素晴らしい投稿をしていたのでそのまま丸ごとシェア。

森林原人さんはAV男優さんですが、偏差値78、頭の良さとセックスの経験値から〖性愛〗について真面目に語られている方です。

 

なぜ、パートナーには「寂しいよ…」と言えないのか

出会ってすぐの時や付き合い始めたては、嫌われたくないって気持ちが働いて、「会いたいよ」は言えるけど、「寂しいよ」は言えなくて、

でも、仲良くなっていって、二人の時間が積み重なっていくと、「寂しいよ」って甘えられるようになって、それ以外にも一次感情と呼ばれるものを伝えられるようになっていく。

一次感情というのは、自分の根っこにあるもので、それを元に怒りだとか、喜びといった感情表現につながっていく。

怒りは感情の一つなんだけど二次感情で、その根っこには、寂しいとか悲しいとかといった一次感情があったりする。

感情表現が下手な人は、二次感情を他者に伝えるのが苦手なんじゃなく、その根っこにある一次感情に自分で気がつくことができていないことが多い。

この人は、私のもぎたての一次感情を受け止めてくれるからもっと一緒にいたいなって思うようになって、それで一緒に暮らそうとか、この先も一緒に過ごしていたいなと思って、結婚したり、パートナーと呼び合える関係に進んでいこうとすることが多い。

パートナーと恋人の大きな違いは、生活を共にするかどうかで、生活とは、日々のあれこれ、生きていく上で必要な活動で、衣食住だったり、子供がいれば、その子の安全や健康、ある年齢までの人生を見守るといったことに共同で取り組む。

それは、共に考え、伝え、決め、受け止め、応えていくの繰り返しで、役割や立場を分担すると効率がいいから、最初からそれが決まっているパターンもあるけど、どんなパートナー関係でも次第にどちらかに割り当てられていく。

その負担が均等なのか不均等なのかはとりあえず置いといて、考えていきたいのは、それぞれが役割、立場につくという大きな変化があるってこと。

恋人と呼び合える期間にも立場は割り当てられているんだけど、そこではその立場に伴う責任がものすごく限定されている。一次感情に応えることと、心と体の独占権を相手に渡したり、全うすること。「寂しい」って伝えたら「寂しいの?僕もだよ」って応えて、心は私に向いていてねって約束があって、この体はあなたのものよって明け渡す一線を一緒に超える共犯意識を持つ。

それらは、甘く、切なく、心地良い責任。言い換えると、感情的役割とその責任。

一方、パートナーとなったときの役割や立場に伴う責任は、真面目で、面倒で、つまらないことが多い。社会的役割とその責任。

パートナーになっても、恋人としての立場でいる時間がどれぐらいあるのか、その意識をお互いに持ち合えているのか、これが性愛の領域に大いに影響してくる。

性愛の本質的よろこび(悦び)は、他者とつながること、体で触れ合うことだけども、それは、一次感情と密接につながっていて、濁りのない、加工されてない、純粋なよろこび。

この存在と、これを感じられる生き方があるよということが、僕が一番伝えたいと思っていること。

だけど、どんな人にも、社会的役割はあって、その前提として、個人の自由や人権があるから、それを放棄する事はできないんだけど、個人とか人権といったものを尊重しすぎると、個人として独立する意識が強くなる。

それに伴って、他者とわかりあえないという現実に直面し、感情を伝えることを諦めてしまうようになる。

この矛盾によって生み出されるのが、レスであり、一番そばにいて仲良くしたい相手と仲良くできなくなってしまう原因。

ここまでが、表題に関する僕の見解です。そしてここから先は、僕の感じている性愛の本質に対する思いです。

性愛の本質である“他者とつながる“を考えていく時に見落としがちなのは、感情でつながる時、共感する感覚を得ることがあって、それが一体感になる。でも、これは勘違い、と言うと否定のニュアンスが強くなりすぎてしまうが、擬似的な感覚、つまり二次感覚であるということ。

一次感覚としてあるのは、ありのままの自分を受け止めてくれたという感覚で、そのままの、今のままの自分でいいんだって許し合える場を共に作り出せたよろこび。これが性愛の本質の根っこにある。

こんなことばかりを考えている僕の話を聞きに来てくれたら嬉しいです。

そして、あなたの一次感情、一次感覚の話を聞かせてください。

はぁ、これを男性が言ってくれるっていいですね。性愛について語るのは圧倒的に女性が多いですから。

おそらく男性は性愛について考えたこともない人が多いでしょう。

 

”パートナーになっても、恋人としての立場でいる時間がどれぐらいあるのか、その意識をお互いに持ち合えているのか、これが性愛の領域に大いに影響してくる。

性愛の本質的よろこび(悦び)は、他者とつながること、体で触れ合うことだけども、それは、一次感情と密接につながっていて、濁りのない、加工されてない、純粋なよろこび。”

性愛の勉強って義務教育にできないんですかね?男女共に同じ意識がないとこの濁りのない、加工されてない、純粋な悦びを味わうことってできないんですよね…。

 

”感覚としてあるのは、ありのままの自分を受け止めてくれたという感覚で、そのままの、今のままの自分でいいんだって許し合える場を共に作り出せたよろこび。これが性愛の本質の根っこにある。”

『ありのままを受け入れてくれたという感覚』これはリラクゼーションスパ立花でも大切にしている感覚で、私がまぐあいで最も重要な感覚だと思っている。

いいまぐあいをした後は、なんかよく分からないけど大丈夫な気がする、何でもできる気がする、この境地に達する事ができるのは、お互いがありのままを抱擁できた時にしか起こらない。

 

でもセックスに限らず、相手のありのままを受け入れるってなかなか難しい。

どうしても彼氏なら~するべき、夫なら~するべきとか、独占欲や今までの環境で凝り固まった思い込みで相手を変えたくなる。

相手をそのまま見て、そのまま受け入れるって至難の業だ。どうしてもジャッジしてしまう。

常に自分のエゴが働いてしまう。きっとありのまま見るとかできる人はそうそういない。

相手の行動にモヤッとしたら、まずは自分の心を見る。内観する。

あっこれは私のエゴだと思ったらその感情はポイって捨てる。森林さんが言うように一時感情を可愛く伝えるって手もある。

パートナーシップほど自分のドロドロした部分が浮き彫りになるものはない。これこそ一番の修行だと私は思っている(笑)

 

でも不思議なことに、まぐあいでありのままの私を受け入れてくれたって感覚があると、

日常の些細な出来事なんて「あっそうなのね~♪」って笑顔で受け入れてしまえたりするのですよね。

満たされるまぐあいができていれば、私は基本ご機嫌です(笑)

みんなが本質的な愛に気づけば、世界平和なのにな。

 
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